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【 書紹介 】●作家は何を嗅いできたか-三橋修著-

●作家は何を嗅いできたか-三橋修著-
   現代書館二〇〇九年六月刊一九九五円

『作家は何を嗅いできたか』とは下世話な響きだが、深い感じの好題目である。本書には「におい」に絡んで主に明治以降の文学からの様々な引用が織り込められている。
田山花袋『蒲団』(明治四十年)の主人公時雄は、もはやいない女の「夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女のにおいをかいだ」訳だが、その悶々とした鼻振りは現在からそれほど距離があるとは思えない。自らも記者従軍した日露戦争から二年後に花袋はこれを著すが、その私性=モダニズムは思春期のような戸惑いを孕んでいるようでもある。
においというのは「いきなり脳を刺激し、言語化できないけれども各自にとって好きか嫌いかが明快で、記憶と結びつく」もので、「それはあくまでも感じるこちら側に問題があり」、「においがどう意識されたかには歴史」があって然るべしと本書は云う。でも「においはそこにあるにもかかわらず」、記録され得ぬライヴである。そういう点では「においに誰が何を感じていたかというのは実証のしようがない。だからなおさら書かれたものに頼らざるをえない」と本書は語り、「においを探る手立てとして」文学をみる。
確かに文学は「誰が何をくさいというのか」に関与している。泉鏡花『貧民倶楽部』(明治二十八年)での明快さは、冷めた神経質としての鏡花の尋常さであろう。興味深い。その鏡花三年前の明治二十五年に、松原岩五郎は『最暗黒之東京』で貧困者の集住地区を見事にルポルタージュしている。身分制による差異を廃止した明治政権は、「見た目では差がわからない」近代無産人を量産した。移動を解禁された没身分者たちは都市部へ流入してくる。東京には人が溢れて各所に貧困者の群れが出来上がる。
松原は貧困者集住区を「臭気」「体臭」「悪臭」の百家争鳴の場として描くのだ。英書『最暗黒の英国とその出路』は明治二十年に翻訳されており、松原は東京でその写しを著したのであろう。こうして探訪・報道手法が「くりかえし臭気を記述することで」暗黒=貧民窟は幾重にも「発見」されて行く。明治二十年代は「臭気」「悪臭」をもってある地域を括ることが生まれた時代だという。この探訪・報道手法は異文化(移民街・台湾・朝鮮等)を、低く遅れた場として確定するためにも活用された。耳の痛い話だ。
そもそもの貧民窟の発見も異文化体験であった。「西洋人にばかにされないように作られた」明治初頭の「違式詿違条例」の風紀の如く、日本の近代化意識がいかに西洋に対する萎縮と羨望によって成り立っていたかが判る。下層の群れを「におい」として描き出す明治の先進意識とは、近風景としてのにおいの額装化ともいえそうだ。
もっと耳が痛いのは、―下層の発見では、少なくとも「そこにあったにおい」が、(においを言挙げする時代の中で)「そこのないにおいがあると言われる」ように―転換する点である。島崎藤村の『破戒』(明治三十九年)の主人公丑松に仕向けられた「穢多に一種独特の臭気が有る」という風聞、岩野泡鳴『発展』(明治四十四年)『毒薬を飲む女』(大正三年)の主人公義雄が惚れた女に対して勝手に思い込みドタバタする「部落民」の匂い。いずれも「におい」と「くさい」は対応しておらず「においがあると言われている」だけに過ぎない。それは化粧のようでもある。そこでは「くさい」と名付けるだけの付価言葉(メタ言語)が威力を発揮している。
丑松に仕向けられた風聞の匂い、義雄が思い込む仮象の匂い、冒頭に触れた時雄が嗅いだ移り香の匂いは、後続の大正期に始まる作家に意識的に受け継がれる。まさに「におい」が私性の表象に深く作用してくるのだ。
芥川龍之介は初期の『世之助の話』(大正六年)で、「腐った灰墨」に子供の頃の「さびしい、たよりのない心もち」を感じ、また『偸盗』(同大正六年)では、炎天下で潰された蛇の「腥(なまぐさ)い腐れ水」や病人の腋や頸元に「腐った杏のような、どす黒い斑」の臭気を嗅ぐ。
そして自殺後に見つかった『或阿呆の一生』(昭和二年)の『九 死体』では「腐敗した杏の匂」、また『三十一 大地震』では「炎天下に腐った死骸の匂」を「熟し切った杏の匂」として著している。芥川は杏の匂いに己を移した。その「腐れ」と「熟し」の間をメランコリックにさ迷っている。もし『河童』(同昭和二年)の国に杏が登場していれば、その杏は腐れてはいないだろう。少なくとも熟し切っていないだろう。
彼は河童の国のユートピアンであった。同時に人間の国では、腐る必然に立ち尽くす終末論者でもあった。成長と腐れが同調しているモダニズム(現世)に悪酔いしつつ、芥川は現世を憂鬱(終末的)に嗅いだのだと思う。
注目すべきは、前記『三十一 大地震』で腐れが救済に絡んでいることだ。「炎天に腐った死骸(熟し切った杏)の匂も存外悪くないと思」い、「殊に十二三歳の子供の死骸」に羨ましさを感じている。ここに河童の国(ユートピア)が透けて見える。そして彼の「さびしい、たよりのない心もち」を伴った無垢への憧憬も表明されている。
こういう芥川の現世に対する急迫性のような抑鬱感は川端康成にはない。だが川端の表すにおいは豊富である。個々の生のにおいを見事に物にしている。
彼は目前の対象をそのまま観察し、においをその修辞の要にまで仕立て上げるのだ。その遠近法は―わたしとあなたの間―の嗅覚の距離である。「荒野にぽつんとある石のようにまったく天涯孤独」で「好奇心もなく軽蔑も含まない」観察者である自分=主体が、賞味期限付だがあるがままのあなた=客体を一方的に物語る。そこでは私本意の私近のにおいが次々に発見されて行く。しかもこの主客の構図に第三人称は必要とされない。川端康成はユートピアンであるよりニヒルを装った現世利益者なのだと思う。
もはや額縁入りの風景画のような「におい」は、川端にとって「世知辛いもの」でしかないのだろう。『伊豆の踊り子』(大正十五年)の一高生は旅芸人に同行する。彼は「旅芸人という種類の人間であることを忘れ」るくらい群れ(一座)に対する興味はなく、踊り子の少女に照準を定める。一高生にとっては少女以外すべて「世知辛いもの」である。自ら装う変身(同化)のための鳥打帽でさえ「世知辛いもの」だったであろう。
ここで嗅がれる「のんきな」「野の匂い」は少女との距離だが、カマトトぶった川端の舞台設定はたいへん魅力的だ。「生魚と潮の匂い」は実現できなかった私近を揶揄している。その匂いをまさに嗅ぎつつ、主人公は帰りの船で「涙を出委せに」するのだが、彼はもうそこでは立派な大人になっている。
自伝的短編集『掌の小説』の『二十年』(大正十四年)で、「霜焼けで腐っていくような皮膚」に「色情的な臭いを感じ」た私がおり、また『眠れる美女』(昭和三十五年)の江口老人は「黒い娘」の腋臭に「いのちそのものかな」とその野生に惹かれ、その直後娘は死ぬ。川端がネクロフィリア(死体愛好者)だったかどうかは遠くに置き、彼は「生きているにおいと、死に際のにおいと、死者のにおいとに差別をつけていない」のであり、「ここでのにおいは、存在そのものを指している」という著者の指摘に深く同意したい。においを存在の性起として捕らえる川端の遠近感は、still-life(静物画)を嗜む孤独な近代人の私性を彷彿させる。
六十年代(昭和三十五年〜)の三島由紀夫と大江健三郎は皆様に任せる。この二人はどうも疲れるのだ。むしろ本書絃呂播仂譴靴討い訝羮綏鮗,楽である。『枯木灘』(昭和五十二年)は荒ぶるも美しく紡がれている。その物語に織り込まれるにおいもまた興味深い。主人公秋幸に纏わるにおいの情景は、日も水も汗も路地もすべてがにおうだけではなく、「においと音と呼吸が等価」で「土や草が生きているその呼吸と秋幸の呼吸が共鳴して」いる。本書が指摘するように、「中上の描く自然は、私たちの目にするいわゆる自然とは違い、人間の抗いよって呼吸を思わず知られてしまう自然、敢えて言えば神話的超自然」=「神話的におい」なのであろう。
芥川には客体の内に己を投射する主客のこだわり的な合一表現があるが、川端にはそれがない。観察する私が、あるいは客体(対象)を消費(解釈)する私近が世界に木霊することで止る。しかし中上のそれは様相が代わるのだ。芥川にせよ川端にせよ主体と客体の距離が近くなることすれ、両者は主―客の主従関係の内に定立しているが、中上の関係は客体―客体の連鎖であり、その連鎖に主従関係は伴わない。そこで自動力を持った「抗い」が出来事を起こす。客体と客体とは共鳴し「呼吸を思わず知られてしまう自然」として顕れて、―第三人称としての私―とも言うべき世界を語り始めるのである。そのリフレインの響きは存在しない神の息吹のようだ。
この「神話的におい」の内に、名付けるだけのメタ言語の威力が変化される、という作用を見るのは曲解であろうか。
風聞の匂いや仮象の匂い、果ては無臭などと、近代人は臭うことからズレを起こした匂いの化粧坂を駈け上がってきた。いまや私たちは付価の万華鏡の中で虚ろなマニエリズムを生きている。たとえ消臭と言ってみたところで「実は他のにおいによってカヴァー」されるに過ぎない。このにおいのアトム的羅列は、メタ言語の覇権を永続的に拡大するが如くの勢いである。そのような覇権の場において中上の「抗い」とは、客体間のモナド的連鎖―すなわち、見えない糸を紡ぎだすスピンドルという動力の希求、とも読める。
ここで本書をもう一度読み直してみたくなった。次はまた違う感想になるかも知れない。ことは「におい」である。
装丁に一言。萬鐵五郎画「裸体美人」(明治四十五年)を提案したのは確かに僕だが、腋窩部分のトリミングという解釈と嗅の丸ゴチぼかし袋文字は、その説明的意図がいやらしい。ノンポリの政治主義である。この明治四十五年の画も本文と同様に対決してほしい。

平成二十二年元旦 パオ代表 安仲卓二


2010年01月01日(金)  

アフガニスタン特派通信1―2008年9月28日

 9月26日の夜11時過ぎにイスラマバード空港に降りました。カーブルへの乗り継ぎが3日後なので若干の用足しにそのまま車でペシャワルに向かいました。20日首都イスラマバード中枢部に位置するマリオット・ホテルが爆破されるという事態を見てもわかる通り、パキスタン情勢は極めて緊張の度合いが増しています。ペシャワル会の伊藤さんがジャララバード(東部アフガニスタン)で亡くなってからひと月が過ぎますが、これもまたパキスタン情勢と無関係では無いと思います。現在のペシャワル市内ではいわゆる観光客の姿はほとんど見かけません。ペシャワルで幾人かのパシュトゥンの友人と意見を交換しました。そこで今回のマリオット・ホテルの件についての幾つかのストーリーを聞いた訳ですが、その一つに興味深い話がありました。マリオットの件は極めて衝撃的な事件だが、タリバンのテロという意味からではなくパキスタンの国家的な存亡に関わる問題を孕んでいる、という見解です。
 彼はザルダリ政権に一片の力量も無いとしつつ、米国とパキスタン軍部とりわけISI(統合情報部)との亀裂がマリオット事件を生み出したと言います。この間米国大統領は米軍にワジリスタン(パキスタン領土)に対する公然たる侵犯を許可しました。ISIは猛然たる反抗を示した訳ですが、米国の決定は次期大統領になっても変わらないでしょう。ここにパキスタンにとっては主権国家としての重大な問題が発生しています。問題はそこにあります。マリオット・ホテルはイスラマバードにおいては米国そのものです。アンバランスな同盟者同士の緊張極まった事態のなかで、より下位のパートナーが「米国人の被害者が極めて少ないマリオット・ホテル爆破」を生み出したということです。
 米軍・米情報部に対して下位のパートナーであるISIは主観的にはパキスタン愛国者です。アフガニスタン・パキスタンにおいて、「米国発のテロとの戦い」という題目の裏側でテロリスト抵牾を育成管理してきたのもISIであるに違いないと思います。それは破産国家パキスタンの経営にカンフル剤を打ち込んできたともいえます。「パキスタン大統領の反テロのリップサービス」と一対になって「破壊実行の謀略」を担ってきたのがISIなのかも知れません。そうであれば大変恐ろしいことです。
80年代反ソヴィエト・アフガニスタン戦争で培ってきたノウハウを有効に活用して、タリバン政権を影でサポートしてきたISIの「工作力」は強力です。カシミール・ジハードは芳しくありませんが、アフガニスタンにおける反ソ・ジハードそしてタリバン政権まではISIは比較的に上手くやってきました。そして9.11以降タリバン政権崩壊という調整を経て対テロ戦争に巧妙に同調してきたISIのしぶとさはクレバーそのものです。新たなる世界的な大局変化を迎えている現在、パキスタンの暗部に深く浸透している彼ら前途は、かつてない大きな岐路に立たされているのかも知れません。現況を表すならば「タリバンはISIではない、しかしISIはタリバンの亡霊を創作することができる」というところでしょうか。
これに関連していることですが、パキスタンはいつもインドの動きを気にしています。時には過剰ともいえる反応を示します。インドはアフガニスタンでの活動を強化している訳ですが、パキスタンはそのことに非常に神経を尖らせています。とりわけアフガニスタン国境(デュランドライン)付近におけるインド機関の工作に対して脅威を感じています。北部パシュトゥン部族地域の混乱にインドの影を見ている人は多いようです。それが実体なのか、亡霊なのか、吟味せねばならぬところだと思います。
明日はカーブル行きのフライトです。アフガニスタンの情勢も良くないと聞きます。今回の旅はアフガニスタン北部のトルクメニスタン国境沿いの村です。北部国境の河=アムダリア南岸のトルクメンの村が目的地です。在東京のアフガニスタン大使館に勤務するパシュトゥンのBさんは「昔のアフガニスタンとは違いますからそんなところに絶対に行ってはいけない」と言いつつもビザをくれました。しかし私は窓からアムダリアが見える絨毯織りの郷に行こうと思います。

28sep.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

アフガニスタン特派通信2―2008年9月30日

 アフガニスタンでは断食明けのイード(大祭aed al fitr)が今日から始まりました。29日の17時にカーブル空港に降り、市内には寄らず即夜道をマザリシャリフまで車でとばしました。クンドゥーズ行の道路で強盗団がでるとペシャワルで聞いていたので夜行はどうかと思いましたが、現地でマザリシャリフへの道は問題ないという信頼性のある報告があり即断しました。24時過ぎマザリシャリフに到着、近郊の友人の村に入りました。
 今回の旅行はパオという小さな事業のための調査(絨毯産出地調査)がメインなのですが、個人的には他の想いもあります。ペシャワルもそうでしたがアフガニスタンにおいても外国人の姿を見かけません。私の目的地はもともと余所者が入れるようなオープンな村ではないので当然ですが、国際線の着いたカーブル空港内外で外国人の姿が見られないのは妙な感じです。理由は解ります。しかしタリバン政権崩壊後のカーブルは外国人でごったがえしていました。2001年の秋から国家援助とか民間援助とかを理由に国際機関スタッフ・企業人・NGOスタッフ等が流行のようにカーブルを訪れました。丸7年がたとうとしている今はなんともいえぬ寂しさです。8月の下旬ペシャワル会に所属する伊藤さんがジャララバード近郊で亡くなりました。水の泡のように消えてゆく流行りのNGOとは一線を画しているペシャワル会の活動は私も知っています。メディア対策にも優れていて、日本においてはアフガニスタンと関わる最良の部類の団体だと私は思います。亡き伊藤さんは捕捉・連行され殺されたとのことです。なんとも痛ましく、そして無念な気持ちが湧いてきます。この出来事も今回の私のアフガニスタン訪問の隠れた想いの一部でもあります。
 私は伊藤さんに関する報道を逐一見ていた訳ではありませんが、そのニュース等で気になることがありました。情報が錯綜するなかでペシャワル会の事務局長は言葉を選び慎重にメディアと対応していたと思います。その中で極めて印象的な発言がありました。この事態においてもペシャワル会は退き返さない、このまま撤退したら「日本人は駄目になる」と言ったことを憶えています。私は事務局長のこの言葉に光るものを見ました。少し安心もしました。後は伊藤さんの無事を願うだけだと思った訳です。しかし伊藤さんは遺体で見つかりました。ペシャワル会事務局長の沈痛なる会見をTVで見ました。私は伊藤さんが生きて戻ると思い込んでいたので、そのあまりにも早い死の知らせに驚きました。アフガン人はどうなってしまったのか、殺す意味がわからないと戸惑いました。嫌ぁーな感じです。すなわち策略のにおいです。それってもしかしてISI?と一瞬私の頭を過ぎりました。
それはそれとして、…その後ペシャワル会事務局長は「これ以上一人たりとも犠牲者を出さぬために日本人スタッフを現地から引き戻す」とメディアに明言していました。私は最悪の自己チューだと思いました。加えて中村医師だけは現地とコンタクトを取るという玉虫色のインフォメーションをする訳です。そういうことは黙ってやれば良い。殉教志願のパフォーマンスあるいはスタンドプレイを見せられた気分です。たとえ後にあれは撤退の意味ではないと言っても、何れにせよメディアは「撤退」宣言にしてしまう、そんなことは分り切っています。メディアを使おうとしたものがメディアに使われてしまう。メディア戦術に長けていた筈の事務局長の発言とは思えませんでした。メディアに対しても大衆に対してもそんなサービスは必要ありません。「日本人は駄目になる」という光が、別物に変わって行くのを見た気がしました。明らかになにかが変わったと思います。あえて関連付ける必要の無い話ですが、天皇は伊藤さんの死が確認された直後ペシャワル会に「弔電」を打ったと報道されました。それも印象に残りました。
もう一つ隠れた想いがあります。明日は20年前アフガニスタンで亡くなった南條直子さんの命日です。南條さんは1988年10月1日カーブルとジャララバードの中間のサロビ近郊で戦闘取材の最中に地雷を踏んで亡くなりました。次は明日の命日に書こうと思います。 

30sep.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

アフガニスタン特派通信3―2008年10月1日

 伊藤さんの死と南條さんの死は20年の歳月の差がありますが、私にとってはそれらの死に年月の差はありません。今回の旅行は「我もアフガニスタンにありき」というようないにしえを想う気分ではありません。「アフガニスタンにも死はありき」という直接的な気分です。今の私は時間に対しても空間に対しても遠近法が作り辛い気分であります。常々私は南條さんの撮ったアフガニスタンの写真にコメントを書きたいと思っていました。南條さんの両親から写真展の許しが出たので、パオ・ギャラリーで来月11月28日(金)〜12月7日(日)に開催したいと思います。是非寄ってみてください。
なぜ彼女の写真にコメントを書きたいかというと、南條さんを思い出そうとか追悼しようとかいう気持ちではなくて、アフガニスタンを対象とした仕事において競合したいと、私は今でも思っているからです。だから南條さんは良くも悪くも素晴らしい人だったとか、彼女の人生は壮絶だった、というような人生ストーリーを描く気は毛頭ありません。私も多少のアフガニスタンとの関係を持ち続けています。だから南條さんが撮った(撮ろうとした)アフガニスタン、書いた(書こうとした)アフガニスタンに興味があります。私は彼女と歳が同じだったということもありますが、大雑把にいえば南條さんとは業種が違うライバルみたいなものだと思っています。そういう意味で私は、自分のアフガニスタンの仕事を堅持・継続しながら彼女に意見を言いたいと思っています。これは死者に対する私の正直な気持ちであります。私は南條さんと会った1986年頃からアフガニスタンの絨毯屋で、アフガニスタンの人間そのものよりも、それらが作った物を通してアフガニスタンと付き合おうとしていました。私の姿勢や方法は南條さんとは違いましたが、アフガニスタンを発見し対象物として接しようした事は共通していました。私の仕事はいまだ上手く行かないのですが、86年当時以来この立場を保っています。
これはある意味では死んだ南條さんとの約束みたいなものだと思っています。人間なんて20代で考えたことと50代で考えることとがそんなに違うとは思えません。20-30代でこだわっていたことは、50−60代になっても姿を代え形を代えて出てくるものだと思います。私は20年前南條さんとシリアスな言い争いをしました。20年経ってもたいして変わりの無いことをやっています。質の変化など恐れ多い話で、多少の経験と読書の量が増えたに過ぎません。よりずる賢くなったというのが実情でしょう。南條さんとの言い争いも一向に解決できません。そろそろ私も勇気を出さねばならない年頃になったようです。今回のアフガニスタン行は墓参りといったものではなくして、生を存続させる為に墓(死)そのものへの親和性を意識した再出発の旅だと思っています。
私は南條さんや伊藤さんとは道は違っても、日本人としてアフガニスタンの道を進みます。退き返すことはしません。この間のペシャワル会のことは知りませんが、私が思うに彼らもまた退き返すことはしないでしょう。ただし人道に縛られた道はどこまでも自分善がりな他人事然とした嘘と誤解をパートナーにせねばならず、アフガニスタンでは茨の道以上に険しい道があるように思えてなりません。武士のヒューマニズムより武士のキャピタリズムが問われているような気がします。絨毯を扱う小商人の私は武士にはなれませんが、クチヤン(遊牧民)の末裔と接しながらキャピタリズムが見えるか否かを感じたいと思います。
断食明けのイードも明日で終わります。村の道筋で出会う人はイードムバラク(おめでとう)と挨拶します。各家は挨拶廻りの客をもてなす菓子と茶が用意されています。晩餐はより豪華です。この3日間のイードを日本で例えるなら正月の三が日ともいえます。初源を想起する断食と瞑想のひと月を経た節目の時です。実はイスラム暦上は10月なのでここで年の更新はないのですが、でも生活上の節目としたら断食明けが、正にお正月といった感じです。イードムバラク!=明けましておめでとう!

南條直子命日‐01oct.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

アフガニスタン特派通信4―2008年10月2日

今日でイードの休みは終わります。いま午前10時半ですが、さきほどまで屋根に上って凧揚げしていた子供らの声も消え、村には静かな風が流れています。ここはマザリシャリフから10km位離れた農村です。デェダァディ(dehdaadi)と呼ばれています。隣の家から夕飯を呼ばれているだけが今日の予定ですから、ゆっくりとこの静けさを堪能したいと思います。
この夏全然雨が降らなかったそうで、今日も青空が広がっています。しかし村の中を流れる小川の水はそれなりの量のように見受けられます。この村の顔役であるアブザリ氏(48)が言うには、この小川の水はバンデアミールから来るそうです。バンデアミールからアクチャまでイマムクリ(imaamkuri=中下流域通称)川がおよそ400km流れています。この川は普段アムダリアまで届かずアクチャで地中に消えてしまいます。この川には18の支流があるそうで、そのひとつがこの村の小川=ナハレシャーィ(nahrshaahi)だそうです。ナハレシャーィはデェダァディ村を通ってマザリシャリフへと下り、そこでこの流れも地中に姿を消します。バンデアミールの水はこの北部一帯を18本に枝分れしながら潤しているのです。目の前の緑茶はバンデアミールの水かと思うと少し感動します。またこの村のすぐ近くにカラィジャンギー(qala-i-jangi)という城があります。現在は米軍・ISAF等が陣取っています。
いままでの報告で道路について書くのを忘れました。カーブル空港を夕方18時前に出発して24時過ぎにマザリシャリフに到着するなんて信じられます?夜道ですよ、かつ途中のチャイハナで夕食も食べました。プリホムリ(Pul-i-khomri)-マザリシャリフ(Mazar-i-sharif)間の道路は、去年は工事中のところがまだまだありましたが、今回は出来上がっており高速道路並みに快走しました。2時間です。暗くてどの辺を走っているのか分からずプリホムリから1時間半も過ぎるとタンギー、そしてホルム(タクシュルガン)です。その後20分でマザリシャリフに入りました。これはアスファルトとカローラの威力です。こんなに速いとアフガニスタンに来た実感がまったく湧きません。感想を一言いわせて貰います。つまらん旅です。これでは過去のアフガニスタン旅行ファンは拍子が抜けるでしょう。良いのか悪いのか、アフガニスタンも時間がタイトになりつつあります。
イードが終わって明日から街も平常に戻ります。この村に滞在するのもこれで終わりです。明日からはマザリシャリフの街で今回の目的である絨毯産地訪問の準備です。マザリシャリフには2日間程度の滞在でしょう。マザリシャリフを離れると、此処以上の田舎が待っています。

02oct.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

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