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商と遊行 REVIEW COMMENTS 東中野駅前整備について
 
 
アフガニスタン特派通信1―2008年9月28日

 9月26日の夜11時過ぎにイスラマバード空港に降りました。カーブルへの乗り継ぎが3日後なので若干の用足しにそのまま車でペシャワルに向かいました。20日首都イスラマバード中枢部に位置するマリオット・ホテルが爆破されるという事態を見てもわかる通り、パキスタン情勢は極めて緊張の度合いが増しています。ペシャワル会の伊藤さんがジャララバード(東部アフガニスタン)で亡くなってからひと月が過ぎますが、これもまたパキスタン情勢と無関係では無いと思います。現在のペシャワル市内ではいわゆる観光客の姿はほとんど見かけません。ペシャワルで幾人かのパシュトゥンの友人と意見を交換しました。そこで今回のマリオット・ホテルの件についての幾つかのストーリーを聞いた訳ですが、その一つに興味深い話がありました。マリオットの件は極めて衝撃的な事件だが、タリバンのテロという意味からではなくパキスタンの国家的な存亡に関わる問題を孕んでいる、という見解です。
 彼はザルダリ政権に一片の力量も無いとしつつ、米国とパキスタン軍部とりわけISI(統合情報部)との亀裂がマリオット事件を生み出したと言います。この間米国大統領は米軍にワジリスタン(パキスタン領土)に対する公然たる侵犯を許可しました。ISIは猛然たる反抗を示した訳ですが、米国の決定は次期大統領になっても変わらないでしょう。ここにパキスタンにとっては主権国家としての重大な問題が発生しています。問題はそこにあります。マリオット・ホテルはイスラマバードにおいては米国そのものです。アンバランスな同盟者同士の緊張極まった事態のなかで、より下位のパートナーが「米国人の被害者が極めて少ないマリオット・ホテル爆破」を生み出したということです。
 米軍・米情報部に対して下位のパートナーであるISIは主観的にはパキスタン愛国者です。アフガニスタン・パキスタンにおいて、「米国発のテロとの戦い」という題目の裏側でテロリスト抵牾を育成管理してきたのもISIであるに違いないと思います。それは破産国家パキスタンの経営にカンフル剤を打ち込んできたともいえます。「パキスタン大統領の反テロのリップサービス」と一対になって「破壊実行の謀略」を担ってきたのがISIなのかも知れません。そうであれば大変恐ろしいことです。
80年代反ソヴィエト・アフガニスタン戦争で培ってきたノウハウを有効に活用して、タリバン政権を影でサポートしてきたISIの「工作力」は強力です。カシミール・ジハードは芳しくありませんが、アフガニスタンにおける反ソ・ジハードそしてタリバン政権まではISIは比較的に上手くやってきました。そして9.11以降タリバン政権崩壊という調整を経て対テロ戦争に巧妙に同調してきたISIのしぶとさはクレバーそのものです。新たなる世界的な大局変化を迎えている現在、パキスタンの暗部に深く浸透している彼ら前途は、かつてない大きな岐路に立たされているのかも知れません。現況を表すならば「タリバンはISIではない、しかしISIはタリバンの亡霊を創作することができる」というところでしょうか。
これに関連していることですが、パキスタンはいつもインドの動きを気にしています。時には過剰ともいえる反応を示します。インドはアフガニスタンでの活動を強化している訳ですが、パキスタンはそのことに非常に神経を尖らせています。とりわけアフガニスタン国境(デュランドライン)付近におけるインド機関の工作に対して脅威を感じています。北部パシュトゥン部族地域の混乱にインドの影を見ている人は多いようです。それが実体なのか、亡霊なのか、吟味せねばならぬところだと思います。
明日はカーブル行きのフライトです。アフガニスタンの情勢も良くないと聞きます。今回の旅はアフガニスタン北部のトルクメニスタン国境沿いの村です。北部国境の河=アムダリア南岸のトルクメンの村が目的地です。在東京のアフガニスタン大使館に勤務するパシュトゥンのBさんは「昔のアフガニスタンとは違いますからそんなところに絶対に行ってはいけない」と言いつつもビザをくれました。しかし私は窓からアムダリアが見える絨毯織りの郷に行こうと思います。

28sep.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

アフガニスタン特派通信2―2008年9月30日

 アフガニスタンでは断食明けのイード(大祭aed al fitr)が今日から始まりました。29日の17時にカーブル空港に降り、市内には寄らず即夜道をマザリシャリフまで車でとばしました。クンドゥーズ行の道路で強盗団がでるとペシャワルで聞いていたので夜行はどうかと思いましたが、現地でマザリシャリフへの道は問題ないという信頼性のある報告があり即断しました。24時過ぎマザリシャリフに到着、近郊の友人の村に入りました。
 今回の旅行はパオという小さな事業のための調査(絨毯産出地調査)がメインなのですが、個人的には他の想いもあります。ペシャワルもそうでしたがアフガニスタンにおいても外国人の姿を見かけません。私の目的地はもともと余所者が入れるようなオープンな村ではないので当然ですが、国際線の着いたカーブル空港内外で外国人の姿が見られないのは妙な感じです。理由は解ります。しかしタリバン政権崩壊後のカーブルは外国人でごったがえしていました。2001年の秋から国家援助とか民間援助とかを理由に国際機関スタッフ・企業人・NGOスタッフ等が流行のようにカーブルを訪れました。丸7年がたとうとしている今はなんともいえぬ寂しさです。8月の下旬ペシャワル会に所属する伊藤さんがジャララバード近郊で亡くなりました。水の泡のように消えてゆく流行りのNGOとは一線を画しているペシャワル会の活動は私も知っています。メディア対策にも優れていて、日本においてはアフガニスタンと関わる最良の部類の団体だと私は思います。亡き伊藤さんは捕捉・連行され殺されたとのことです。なんとも痛ましく、そして無念な気持ちが湧いてきます。この出来事も今回の私のアフガニスタン訪問の隠れた想いの一部でもあります。
 私は伊藤さんに関する報道を逐一見ていた訳ではありませんが、そのニュース等で気になることがありました。情報が錯綜するなかでペシャワル会の事務局長は言葉を選び慎重にメディアと対応していたと思います。その中で極めて印象的な発言がありました。この事態においてもペシャワル会は退き返さない、このまま撤退したら「日本人は駄目になる」と言ったことを憶えています。私は事務局長のこの言葉に光るものを見ました。少し安心もしました。後は伊藤さんの無事を願うだけだと思った訳です。しかし伊藤さんは遺体で見つかりました。ペシャワル会事務局長の沈痛なる会見をTVで見ました。私は伊藤さんが生きて戻ると思い込んでいたので、そのあまりにも早い死の知らせに驚きました。アフガン人はどうなってしまったのか、殺す意味がわからないと戸惑いました。嫌ぁーな感じです。すなわち策略のにおいです。それってもしかしてISI?と一瞬私の頭を過ぎりました。
それはそれとして、…その後ペシャワル会事務局長は「これ以上一人たりとも犠牲者を出さぬために日本人スタッフを現地から引き戻す」とメディアに明言していました。私は最悪の自己チューだと思いました。加えて中村医師だけは現地とコンタクトを取るという玉虫色のインフォメーションをする訳です。そういうことは黙ってやれば良い。殉教志願のパフォーマンスあるいはスタンドプレイを見せられた気分です。たとえ後にあれは撤退の意味ではないと言っても、何れにせよメディアは「撤退」宣言にしてしまう、そんなことは分り切っています。メディアを使おうとしたものがメディアに使われてしまう。メディア戦術に長けていた筈の事務局長の発言とは思えませんでした。メディアに対しても大衆に対してもそんなサービスは必要ありません。「日本人は駄目になる」という光が、別物に変わって行くのを見た気がしました。明らかになにかが変わったと思います。あえて関連付ける必要の無い話ですが、天皇は伊藤さんの死が確認された直後ペシャワル会に「弔電」を打ったと報道されました。それも印象に残りました。
もう一つ隠れた想いがあります。明日は20年前アフガニスタンで亡くなった南條直子さんの命日です。南條さんは1988年10月1日カーブルとジャララバードの中間のサロビ近郊で戦闘取材の最中に地雷を踏んで亡くなりました。次は明日の命日に書こうと思います。 

30sep.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

アフガニスタン特派通信3―2008年10月1日

 伊藤さんの死と南條さんの死は20年の歳月の差がありますが、私にとってはそれらの死に年月の差はありません。今回の旅行は「我もアフガニスタンにありき」というようないにしえを想う気分ではありません。「アフガニスタンにも死はありき」という直接的な気分です。今の私は時間に対しても空間に対しても遠近法が作り辛い気分であります。常々私は南條さんの撮ったアフガニスタンの写真にコメントを書きたいと思っていました。南條さんの両親から写真展の許しが出たので、パオ・ギャラリーで来月11月28日(金)〜12月7日(日)に開催したいと思います。是非寄ってみてください。
なぜ彼女の写真にコメントを書きたいかというと、南條さんを思い出そうとか追悼しようとかいう気持ちではなくて、アフガニスタンを対象とした仕事において競合したいと、私は今でも思っているからです。だから南條さんは良くも悪くも素晴らしい人だったとか、彼女の人生は壮絶だった、というような人生ストーリーを描く気は毛頭ありません。私も多少のアフガニスタンとの関係を持ち続けています。だから南條さんが撮った(撮ろうとした)アフガニスタン、書いた(書こうとした)アフガニスタンに興味があります。私は彼女と歳が同じだったということもありますが、大雑把にいえば南條さんとは業種が違うライバルみたいなものだと思っています。そういう意味で私は、自分のアフガニスタンの仕事を堅持・継続しながら彼女に意見を言いたいと思っています。これは死者に対する私の正直な気持ちであります。私は南條さんと会った1986年頃からアフガニスタンの絨毯屋で、アフガニスタンの人間そのものよりも、それらが作った物を通してアフガニスタンと付き合おうとしていました。私の姿勢や方法は南條さんとは違いましたが、アフガニスタンを発見し対象物として接しようした事は共通していました。私の仕事はいまだ上手く行かないのですが、86年当時以来この立場を保っています。
これはある意味では死んだ南條さんとの約束みたいなものだと思っています。人間なんて20代で考えたことと50代で考えることとがそんなに違うとは思えません。20-30代でこだわっていたことは、50−60代になっても姿を代え形を代えて出てくるものだと思います。私は20年前南條さんとシリアスな言い争いをしました。20年経ってもたいして変わりの無いことをやっています。質の変化など恐れ多い話で、多少の経験と読書の量が増えたに過ぎません。よりずる賢くなったというのが実情でしょう。南條さんとの言い争いも一向に解決できません。そろそろ私も勇気を出さねばならない年頃になったようです。今回のアフガニスタン行は墓参りといったものではなくして、生を存続させる為に墓(死)そのものへの親和性を意識した再出発の旅だと思っています。
私は南條さんや伊藤さんとは道は違っても、日本人としてアフガニスタンの道を進みます。退き返すことはしません。この間のペシャワル会のことは知りませんが、私が思うに彼らもまた退き返すことはしないでしょう。ただし人道に縛られた道はどこまでも自分善がりな他人事然とした嘘と誤解をパートナーにせねばならず、アフガニスタンでは茨の道以上に険しい道があるように思えてなりません。武士のヒューマニズムより武士のキャピタリズムが問われているような気がします。絨毯を扱う小商人の私は武士にはなれませんが、クチヤン(遊牧民)の末裔と接しながらキャピタリズムが見えるか否かを感じたいと思います。
断食明けのイードも明日で終わります。村の道筋で出会う人はイードムバラク(おめでとう)と挨拶します。各家は挨拶廻りの客をもてなす菓子と茶が用意されています。晩餐はより豪華です。この3日間のイードを日本で例えるなら正月の三が日ともいえます。初源を想起する断食と瞑想のひと月を経た節目の時です。実はイスラム暦上は10月なのでここで年の更新はないのですが、でも生活上の節目としたら断食明けが、正にお正月といった感じです。イードムバラク!=明けましておめでとう!

南條直子命日‐01oct.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

アフガニスタン特派通信4―2008年10月2日

今日でイードの休みは終わります。いま午前10時半ですが、さきほどまで屋根に上って凧揚げしていた子供らの声も消え、村には静かな風が流れています。ここはマザリシャリフから10km位離れた農村です。デェダァディ(dehdaadi)と呼ばれています。隣の家から夕飯を呼ばれているだけが今日の予定ですから、ゆっくりとこの静けさを堪能したいと思います。
この夏全然雨が降らなかったそうで、今日も青空が広がっています。しかし村の中を流れる小川の水はそれなりの量のように見受けられます。この村の顔役であるアブザリ氏(48)が言うには、この小川の水はバンデアミールから来るそうです。バンデアミールからアクチャまでイマムクリ(imaamkuri=中下流域通称)川がおよそ400km流れています。この川は普段アムダリアまで届かずアクチャで地中に消えてしまいます。この川には18の支流があるそうで、そのひとつがこの村の小川=ナハレシャーィ(nahrshaahi)だそうです。ナハレシャーィはデェダァディ村を通ってマザリシャリフへと下り、そこでこの流れも地中に姿を消します。バンデアミールの水はこの北部一帯を18本に枝分れしながら潤しているのです。目の前の緑茶はバンデアミールの水かと思うと少し感動します。またこの村のすぐ近くにカラィジャンギー(qala-i-jangi)という城があります。現在は米軍・ISAF等が陣取っています。
いままでの報告で道路について書くのを忘れました。カーブル空港を夕方18時前に出発して24時過ぎにマザリシャリフに到着するなんて信じられます?夜道ですよ、かつ途中のチャイハナで夕食も食べました。プリホムリ(Pul-i-khomri)-マザリシャリフ(Mazar-i-sharif)間の道路は、去年は工事中のところがまだまだありましたが、今回は出来上がっており高速道路並みに快走しました。2時間です。暗くてどの辺を走っているのか分からずプリホムリから1時間半も過ぎるとタンギー、そしてホルム(タクシュルガン)です。その後20分でマザリシャリフに入りました。これはアスファルトとカローラの威力です。こんなに速いとアフガニスタンに来た実感がまったく湧きません。感想を一言いわせて貰います。つまらん旅です。これでは過去のアフガニスタン旅行ファンは拍子が抜けるでしょう。良いのか悪いのか、アフガニスタンも時間がタイトになりつつあります。
イードが終わって明日から街も平常に戻ります。この村に滞在するのもこれで終わりです。明日からはマザリシャリフの街で今回の目的である絨毯産地訪問の準備です。マザリシャリフには2日間程度の滞在でしょう。マザリシャリフを離れると、此処以上の田舎が待っています。

02oct.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

アフガニスタン特派通信5―2008年10月12日

 ごぶさたでした。10日ぶりの通信です。いまマザリシャリフ中心部のバラカットホテルです。ペシャワル以来人の世話ばかりなっていましたが、初のホテル滞在です。此処は聖アリー廟(マザリシャリフの由来)の北東に隣接しているホテルで、聖廟が目の前に見える五階のシングルが空いていたので決めました。良いロケーションです。通信1‐4はイード3日間の時間のゆとりで書けたのですが、それからはコンピュータを開ける状況ではありませんでした。荒野、そして砂漠の隠れ里=アフガントルキスタンの旅行から帰ってきました。
4日の朝マザリシャリフでトルクメン人であるアブドゥル・サマッド氏(52)と合流しました。彼の職能・血縁・縁故・性格の助力がなければ今回の旅は不可能です。私は4日に合流して5日の出発だろう、などと勝手に思っていたのですが見事はずれて、サマッドは3日の夕方「カーブルから朝そちらに着く、即出発しよう」と連絡してきました。ということであわただしく4日の朝マザリシャリフを離れて、いよいよアフガントルキスタンの旅がはじまりました。アクチャ(aqchah)−シュバルガン(shbarghan)−アンドホイ(andkhoi)−ハミヤーブ(hamiaab)−カルキーン(qarqeen)−アクチャとアフガニスタンにおけるトルクメンの主要テリトリーのひとつを周遊してきました。この詳細はこの通信の量ではできないので、帰国後ゆっくりと行わせていただきます。
 大雑把にいうとマザリシャリフの北はウズベキスタンと接しています。マザリシャリフを西に幹線道路に沿って約80km行くとアクチャです。古都バルフ(balkh)はその間のマザリシャリフに寄った約20kmの地点にあります。アクチャの北はトルクメニスタンと接しています。アクチャ・シュバルガン・アンドホイは幹線道路に接した街々です。シュバルガンはアクチャから南西の約50kmに位置しており、ジョズジャン(jozjan)州の州都で比較的大きな街です。さらにアンドホイはシュバルガンから北西に約65kmのところにあります。アンドホイの街の半数はトルクメンで占められ、トルクメン色の濃〜いバザールが残っています。私はいままで見たアフガニスタンのバザールの中でアンドホイのバザールが一番気に入りました。道と路地が人・産品・家畜と一体になった渾然たる姿、このバザールに市の原初を見せられた思いです。この渾然たる物と出来事の交叉、その連綿たる継続に感動します。車に占拠されない道は人と物が光っています。来てよかったと思いました。
 アンドホイから先は幹線道路から外れます。ここからが目的の村に至る道です。一転して今度は北東に進路をとります。トルクメニスタン国境を流れるアムダリヤ(amu darya)河南岸に向かって、全視界地平線の荒野を横断するのです。アンドホイからハミヤーブまで北東に約80km、最初はなんとか舗装された道が続きますが、途中からは荒野の轍を頼りにした道無き道です。サマッドがトヨタのハイラックスサーフ(4駆)を用意した訳が分りました。「サハラ(砂漠)だな」と私がいうと、サマッドは「少しむこうは全部シガ(砂)だ。この車でも難しい」といいます。止まってはなりません、とたんにタイヤが砂に埋もれます。日没後ハミヤーブに着きました。もうアムダリヤのすぐ近くです。
 次の日、ハミヤーブから東に約25km、さらに砂漠の道を進みます。チャージババ(chaaji baba)という円錐の頂上が麦の穂のような形をした山が右手に出てきます。この荒野のモニュメントを北巻きにまわると左手にトルクメニスタンの山並みが見えてきます。まだアムダリヤは見えません。昨日と同様過酷な道のりです。砂漠の前方に細く村らしき緑が現れました。その緑の合間に土のゴンバット(ドーム)が見えます。なんというコントラスト、この遠近の広がり、光の織物です。土漠と砂に沈まぬように走り続けねばならない車から見えた村は、とても美しいものでした。
同時に「ようこそカルキーンに!」サマッドの声が私の耳に木霊します。とうとう来ました。車は大河アムダリヤの南の岸辺で止りました。10月7日のことです。

12oct.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

アフガニスタン特派通信6―2008年10月13日

 カルキーンで見るアムダリヤはまさに大河でした。河幅は2.5〜3kmだと村人は言います。そのくらいはありそうです。向こうの河岸(トルクメニスタン)が遠くに見えます。遥か西方にはチャージババが見えます。紺碧の空のもとで川水は天を映して悠々滔々と流れています。白みかかったり、赤みをおびたり、ときには黒っぽく、褐色の大地は静物画のように静まり返っています。たぶん静寂の音はそよ風だったような気がします。あそこで、たしかに…私は静寂という風の音を聞きました。荒野と砂漠の向こう側では、時間と空間が織り重なったまま静止していました。河の中ほどでは魚を取っているのでしょうか、小船と人が見えます。どちらの国のものか、いずれにせよトルクメン人に違いありません。
私たちはアムダリヤを背にして1kmほど離れたカルキーンの集落に入りました。ここで簡単に説明すると、カルキーンはサマッドの故郷の村なのです。今年の5月、私はサマッドに「秋に君の実家に行って周辺で絨毯の製作現場を見たい」とリクエストしました。サマッドは「女は見せられない、他の家や家の中を勝手に写真で写すことはできない。それでもいいか」と返しました。私は承知し、あとはすべてサマッドに任せました。それだけです。この行程も車も運転手もすべてサマッドによるものです。ちなみに運転手は彼の甥のアブドゥル・サラーム(25)を連れてきました。私は彼らの虜になったようなものです。それが見知らぬ伝統社会に入る最良の方法と思っています。強盗捕虜とは逆の客人としてですが、虜には変わりありません。そこには客人歓待儀礼という留置所が待っています。
ある日は、朝食に加えて昼までに3回の正規の歓待食に遭遇しました。その流れを表しますと、まずは列席者各々に挨拶をする、客部屋に入る、長老および客人が上座に家の主人は下座に座る、緑茶と茶菓子がでる、歓談をしているうちに手洗い水が廻ってくる、ナンが食卓布の上に置かれる、スープ・ヨーグルト・生野菜・煮込み等が配膳され、果実も来る、メインの肉入り炊き込み飯が大皿・大盛りで運ばれて来る、羊の頭は上座に置かれ長老らが客人らに分け与える、食事が終わると主人から客人にチャパン(外套)が贈られる、そして全員の祈願(doaa)で締められる、というのがだいたいのコースです。これが日の出後に朝食をしっかり食ってから、なおかつ昼食まで3回ですよ。
またある時は、サマッドが「時間が無いので先を急ぎたい」といったら、まさに馬賊といった凛々しい男が立ちはだかり「俺の招待が受けられぬか」と凄んだ時は迫力がありました。「はい、行きます」ということになったんですが、長老たちも気を遣って、「まぁ、まぁ、まぁ、それでは皆で神にドアァ(祈願)を」とお愛想笑いで音頭をとり、アーミン(アーメン)で丸く収めていました。家の体裁と男の顔が懸かっている訳です。たとえ胃袋が破裂したとしても神はお許しになるでしょう。
歓待食を食っているだけで1日が終わってしまいます。客人は耐えねばなりません。これでは絨毯どころではないという感じですが、少し絨毯作りの現況をかいつまんで置こうと思います。
 まずは羊ですが、この辺の在来種はカラクル(karaqul)羊と呼ばれていまして、その羊毛は伝統的に絨毯の原料になっていました。昨年から今年にかけての冬期間は大変寒く雪も多かったそうで、厳冬期に多くの羊が死んだそうです。ちなみにサマッドの実家の羊は約1200頭いるそうですが、そのうちの約100頭が死んだと言います。加えてこの間の戦乱と混乱でカラクル羊の量は減ってきているそうで、羊毛の量は不足しているそうです。私の見た紡ぎ場での洗浄後の原毛も、カーブルの南に位置するガズニ(ghazni)産のものでカラクルではありませんでした。パイル(pashm)用の洗毛を手梳き-hand carding-しているところを見ましたが、ガズニの羊毛もなかなか良いものです。
カラクル羊の最良の毛は背中と首周りの長毛であります。これは主に縦糸(arish)とパイル糸(pashm)に使われます。カラクルは白系羊と黒系羊がいます。縦糸ですが白系8.5、黒系1.5の割合で混ぜるそうです。他に白系8、黒系1.5、山羊毛(chopir)0.5の割合のもの、また白黒問わずカラクル8、山羊毛2の割合で混ぜるものがあるといいます。(通信7へ)

13oct.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

アフガニスタン特派通信7―2008年10月13日

 梳き-card-の話が出てきたので手梳き台=梳き櫛(draq)について説明しましょう。洗毛されそして色で分けられた羊毛は手梳き台で質的な選別を行います。手梳き台はいたって簡単なもので、台木板に金釘が2列に櫛の歯のように埋められた梳き幅20cm程のものです。この金釘の櫛に羊毛を通して引っ張ります。それを繰り返しながら羊毛の長さを選別してゆきます。固まった毛や粗い毛は櫛に引っかかり取り除かれます。道具は簡単ですが仕事はたいへんです。ある本に「この方法では1日に梳くことができるのは1kgまでだ」書いてありました。
梳かれた羊毛は糸-yarn-に紡がれます。錘=紡錘-spindle-です。心軸を垂直にして中空で回転させながら撚りをかけて羊毛を糸にする作業です。錘には心軸の下方に重心均衡をとる盤がありますが、それが異なる2種類の錘をみました。ひとつは指で引っ掛けて回転させるための十字形もので、アタナク(atanaq)あるいはチリク(chilik)と呼ばれています。これが一般的です。もうひとつは独楽のように盤が円形のものがありました。イーク(aik)と呼ばれていました。この独楽のような錘-spindle-は心軸の下点を床に接して、まさに独楽となってスピンしていました。これは盤に動力をかけずに、軸の上部を指でつまんで回転させます。この独楽の錘はアフガニスタンではトルクメン特有だといいますが、扱いがなかなか難しいのでトルクメンでも使う人は限られているようです。
 錘の心軸に巻き取られてゆく紡ぎ糸が適度な球となったところで、その毛糸球を心軸から抜き取ります。この毛糸玉はユマーク(yumaaq)とかコロラ(klolh)と呼ばれます。このユマークあるいはコロラの末端の糸を50本位束ねて、1mの糸繰りに巻きつけながら引いてゆきます。50本の糸束を引くと放射状に拡がった毛糸球が土間の上でころころと転がります。まるで仙人が蜘蛛の糸を束ねているかのようです。糸繰りから外された糸束はカラバ(kalabh)と呼ばれます。カラバは染めにまわされます。
大雑把な説明でしたが、人の手で羊毛が糸になる過程はこんな感じです。人目に触れることは少なくなりましたが、人が糸を紡ぐことは大変な含みを持つ過程だとつくづく感じました。まだアフガニスタンにはこれらの隠された器用人が広範に存在しています。彼らの気質もおしなべて良い。力に逆らわずに羊毛と接する身体知を備えています。それをどう観るか、私にも問われる課題です。
 染めや織りについても順次説明したいのですが、もう夜の10時半を過ぎました。残念なことに時間がなくなりました。マザリシャリフに滞在するのは明日14日迄です。15日早朝カーブルに発ちます。採集したいくつかの陶土や原料サンプル品の写真撮りや荷造り、各所への連絡、とりあえずの挨拶、滞在最終日はなにかと残務が多いものです、通信を書く気になりません。私のハミヤーブとカルキーンの滞在を政府方が快く思わなかったためサマッドが言い訳を入れたことや、カルキーンからアクチャまで約60km南下して戻った道なき砂漠の横断のことも、いろいろと書きたかったのですが帰国後の報告とさせていただきます。今回はなんとしてでも予定通り(その理由は通信2-3にあります)、自分のスタイルでアムダリヤ南岸カルキーンに立ちたかったので、いまだ途中ですがこの現在を噛み締めています。カーブルで一泊して翌16日の便で東京に向かおうと思います。
 カーブルでは古い友人の家に泊まろうと思います。彼は5年前にはカーブル市長をしていました。ラバニ政権の時は文化・スポーツ省の大臣でした。1983年の頃はカーブル近郊の山のそれほど大きくない村のムジャヒディンリーダーでした。今はオリンピック委員会の会長で、大統領アドバイザーとしてカルザイと同舟しています。私は彼の出世に興味ありませんが、そこが味噌なのか付き合いに問題はありません。2、3日前に電話したら「オゥ、どこにいるんだ。カーブルでは俺の家に泊れ。所用で俺が居なくても勝手に使え」と気風の良い返事が返ってきました。居たら来月の南條直子写真展への挨拶文でも書かせようと思います。それでは、「神のご加護を」。

23:21,13oct.2008安仲卓二(パオ代表)
2008年10月14日(火)  

2008年10月14日(火)
アフガニスタン特派通..
2008年10月14日(火)
アフガニスタン特派通..
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